現代では銀行などで当たり前のように行われている両替ですが、「両替商」という両替を生業とする商人が遥か昔にいたことはご存知ですか?
その起源は江戸時代とも言われていますが、歴史の教科書などの知識でなんとなく頭の片隅にある…といった方もいらっしゃるかもしれません。
今回はそんな「両替商」の始まりについてご紹介していきます!
大阪での両替商の始まりは?
「両替商」の起源は江戸時代以前の室町時代で、当時は「替銭屋」「割符屋」と呼ばれていました。
その立場が確固たるものになったのが江戸時代だと言われています。江戸時代初期は「石高制」といって、米が財政の中心となっていましたが、江戸時代も後期になると「貨幣」が出回るようになります。当時の貨幣は金貨・銀貨・銅貨の3種類で、物によって「金貨で払うもの」「銀貨で払うもの」などのように区別がされていました。現在も十円玉硬貨など銅貨が利用されていますが、江戸時代には金貨や銀貨も市場に出回っていたんですね。
また、江戸は「金貨」、大阪は「銀貨」というように、東日本と西日本では経済の中心となる貨幣が異なるといった慣習もあったようです。それぞれの貨幣は価値や単位が異なり、その換算率も幕府の財政によって日々変動するため、東日本の品物を西日本で売る場合やその逆の場合も一苦労です。
その上、当時は頻繁に貨幣の改鋳も行われていました。改鋳とは、貨幣に含まれる金や銀の量を変更することで、当然それによって貨幣の価値が大きく変動することもありますよね。
そこで市場での需要を高めたのが金貨や銀貨を換算率を見て交換する「両替商」だったのです。「両替商」はその名のごとく当初は両替を専門としていましたが、経済活動が活発になるにつれて巨大な富を得るようになり、両替以外にも様々な形で資金を運用していくようになりました。人々からお金を預かったり、利子付きで貸し付けたり、時には遠方への送金なども「両替商」が請け負うようになったのです。
特に天下の大阪の大店ともなると、各商人によって預けられた現金に対して「銀目手形」なるものを発行し、現在で言うところの「小切手」として商取引の決済を行っていました。重量のある貨幣を持ち歩く必要がなくなるため、「銀目手形」は有力な商人の間で頻繁に利用されるようになります。それに伴う手数料によって「両替商」はかなりの収入を得ていたようです。
この「手形」という金融システムの創始者は大阪の「天王寺屋」だとされています。天王寺屋は幕末まで大阪の両替商の筆頭であり続け、大阪で最も格式の高い両替商でした。その権威を誇るように天王寺屋の屋敷も大変立派なもので、当時の経済力が伺えますね。
ただ、天王寺屋の権威も永遠のものではありませんでした。幕末、明治維新と激動の時代の中で天王寺屋は時代の流れについていくことができず、破産、没落してしまうのです。天王寺屋自慢の屋敷も抵当物件として売りに出されてしまいました。没落してしまった両替商は大阪だけでも40軒にのぼると言われています。
天王寺屋の屋敷の一部は京都に移設されているそうなので、興味がある方はぜひ足を運んでみてください!
【大阪】江戸時代から現代に残る両替商は?
大阪で没落を免れた両替商は「鴻池」「加島屋」のみだと言われています。大阪の両替商の筆頭であった天王寺屋が没落するくらいですので、小さな両替商はひとたまりもなかったようですね。
1、廃藩置県によって藩が廃止されたために資金の回収が困難となった
2、銀目廃止によって殺到した現金引き出しの混乱
3、貨幣統一によって存在意義を失った
ことなどが挙げられています。
では、明治維新後も生き残り続けた「鴻池」「加島屋」はどうなってしまったのでしょうか?
「加島銀行」は昭和12年(1937年)の昭和恐慌によって廃業を余儀なくされてしまいましたが、「大同生命保険」は現代でも日本有数の生命保険会社として挙げられていますよね。「尼崎紡績」も「ユニチカ」という企業名で、現代でも繊維事業だけでなく、高分子事業も行っています。
しかし、さすがの鴻池家も明治維新の影響は大きく、相当な損失を受けたと言われています。「加島屋」と違い、金融以外のビジネスの拡大を図ることなく、両替商の事業の流れを汲んで「第十三銀行」を設立することとなりました。明治以降も鴻池家は日本有数の富豪としての地位を保ち、当時の総帥は男爵の地位を叙爵しています。「第十三銀行」は1897年に普通銀行に転換し、「鴻池銀行」と名を変えました。その後も合併や吸収を繰り返し、現代に「鴻池銀行」の名は残っていませんが、「鴻池銀行」は「三菱UFJファイナンシャルグループ」として現代も日本のメガバンクの一つに数えられています。