【両替商】三井高利とはどんな人?鴻池家、江戸時代

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三井高利とは?

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みなさんは、三井高利(みついたかとし)という人物をご存じでしょうか。みなさんがよく知っている百貨店の「三越」と銀行の「三井住友銀行」を創った人物です。今回は、この三井高利はどんな人物なのか調査してみました。

三井高利の祖父である三井越後守高安は今の滋賀県東近江市鯰江の武将でしたが主君の六角佐々木氏が織田信長との戦いに敗れたのち浪人となって現在の三重県の伊勢に移り住みました。

三井高利は三重県松坂市で1622年、三井高俊の四男として生まれました。高利は8番目の末子で、通称は八郎兵衞。

三井高利の父である三井高俊が武士を廃業し酒屋と質屋を開業し商人として三井家がスタートしました。その後三井家の商売は繁盛し、江戸にもお店を構えるようになっていきました。高利の長兄が江戸に開業していた小間物屋を手伝うため高利は14歳のとき江戸に出て長兄の店で丁稚奉公し、番頭にまでなりましたが、三井高利の商売の才能に恐れをなした兄に、病気になった母の面倒を見て欲しいという表向きで1650年、28歳の時に松坂に戻されてしまいました。高利は、その後戻った松阪で豪商の中川氏の長女・かねと結婚し、10男5女をもうけています。

高利は長兄の死後、実家から独立し1673年に再び江戸に出て、現在の東京都中央区に呉服店越後屋を開業し次男の高富に管理させ、同時に京都に仕入れ店を開き、長男の高平にまかせ高利は松阪で采配をしました。

呉服店での商売は、現金払いで商品を客が欲しい分だけ小売りにして販売する方法で、掛値売りをなくし当時としては画期的な経営手法で江戸時代最大の呉服店に成長させました。

商売が繁盛する一方同業者からは迫害を受けるようになったため1683年、現在の三越本店所在地に移転し、同時に三井両替商(現在の三井住友銀行の源)も併設し金融業にも進出して、幕府の公金為替にも手を広げ、幕府御用達商人になり屈指の豪商となっていました。

両替商の豪商として有名なのは江戸の三井家、大坂の鴻池家でした。三井家は現在の三井住友銀行の源で鴻池家は現在の三菱UFJ銀行の源となっています。

高利の晩年は京都で住み、1694年5月29日73歳で死去しました。

江戸時代から現在の三井住友銀行になるまでの流れは?

現在、三井住友銀行と言えば日本国内の誰もが知っている大手銀行ですが、三井住友銀行はいつ出来上がり、どのように現在の銀行になっていったのでしょうか。三井グループの歴史の元となる三井高利の時代から現在の三井住友銀行が出来上がるまでの流れについても調査してみました。

1683年呉服店を営む三井高利は、店舗を拡張した際に両替店を開店させ1686年に京都にある仕入れ店でも両替店を開いて、江戸・大坂間で為替業務を開設し幕府の御用為替方となり、その後高利が考えたそれまでとは違う為替の仕組みを献策し理解を得て1691年、幕府から大坂御金蔵銀御為替御用を命ぜられ幕府の御用為替方の地位を確立しました。高利は同年に、大坂へも両替店を出店しました。

高利はその後も三井の事業を拡張していき、三井家の繁栄と結束を図るため家制を整備しました。高利が1694年に亡くなった後は長男・高平を総領家とし三井全事業の統括機関「大元方」を設置し先進的な組織形態で三井家の呉服店、両替店共に発展しました。

しかし、江戸後期になると呉服業も業績不振となっていた中、大塩平八郎の乱で被害を受けさらに幕府からの御用金の重圧、貨幣大改鋳などによって起こった不況を切り抜けました。

江戸幕府と薩長対立の激化の中、幕府の御用為替方となっていた三井は、幕府と薩長のどちらに加担するか三井の存亡をかけた賭けの状態であったが、1867年4月、京都の三井総領家を薩摩藩家老・小松帯刀と西郷(吉之助)隆盛が訪ねてきたのをきっかけに三井は新政府側への支援に回ることとなった。

1867年10月、徳川幕府から朝廷へ大政奉還となり、三井は見事に賭けに勝ち徳川幕府で金融関係を一気に請け負っていた三井は新政府においても御為替方御用所の役割を引き受けることとなった。

明治政府は新貨の鋳造に着手し、三井は他の豪家(同じく為替で肩を並べていた小野・島田)を出し抜き単独で新旧貨幣の交換業務を請け負いました。造幣局の鋳造能力が限界に達した時、銀行設立を視野に入れていた三井は正貨が支払われることを約束した一時的な紙幣を発行する案を要請し承認され「三井札」を発行しました。

1872年、明治政府を金融面で支えていた三井は銀行設立を視野に日本初の銀行建築「海運橋三井組ハウス」を建築しました。三井は独自の私立銀行の設立を目指していたが、同じく明治政府も銀行設立を考えており、政府の指導により為替方で肩を並べていた小野組と共同経営の形で「三井小野組合バンク」の設立に協力することとなった。

1873年、日本初の銀行「第一国立銀行」が三井、小野の両組合の協力により発足したが、明治政府は突然公金預かり高に対する抵当増額令を発令したため1874年小野組は破綻し台石国立銀行から手を引いた。三井は第一国立銀行を独裁しようと画策したが、大蔵省の渋沢栄一に三井組の支配から独立させる組織改正を提唱されたため三井組は第一国立銀行から手を引きました。

三井組は私立銀行の設立をあきらめず、1876年7月に明治政府の認可を得て日本初の私立銀行「私盟会社三井銀行」を創立しました。

その後の三井住友銀行になるまでを以下にまとめてみました。(一部省略年事あり)

1876年7月私盟会社三井銀行創立
1893年6月私盟会社三井銀行、合名会社に改組
1895年11月住友銀行創業(個人経営)
1909年11月合名会社三井銀行、株式会社に改組
1912年3月株式会社住友銀行設立
1943年4月株式会社三井銀行、株式会社第一銀行と合併し株式会社帝国銀行となる
1944年8月株式会社帝国銀行、株式会社十五銀行を合併
1945年7月株式会社住友銀行、株式会社阪南銀行と株式会社池田実業銀行を合併
1948年10月株式会社帝国銀行、株式会社第一銀行を分離し株式会社帝国銀行となる

株式会社住友銀行、株式会社大阪銀行に商号変更

1952年12月株式会社大阪銀行、株式会社住友銀行に行名復帰
1954年1月株式会社帝国銀行、株式会社三井銀行に行名復帰
1965年4月株式会社住友銀行、株式会社河内銀行を合併
1968年4月株式会社三井銀行、株式会社東都銀行を合併
1986年10月株式会社住友銀行、株式会社平和相互銀行を合併
1990年4月株式会社三井銀行と株式会社太陽神戸銀行が合併し株式会社太陽神戸三井銀行となる
1992年4月株式会社太陽神戸三井銀行、株式会社さくら銀行に商号変更
2001年4月株式会社さくら銀行と株式会社住友銀行が合併し株式会社三井住友銀行となる

三井高利から始まり長い時を経て、三井住友銀行は2001年に誕生しました。

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